鶏口牛後

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毎週週末に仕入先から送られてくる欠品リストとともについてくるエッセイ「レーダー」に書かれている話です。

 

タイトルが『鶏口牛後』です。本文はそのまま

 

「寧為鶏口 無為牛後」(むしろ鶏口となるも、牛後となるなかれ)---「大組織の一員で収まるより、小さくてもトップに立て」の意。WEB日記の「好きな言葉」に鶏口牛後」と書く彼女は、これまでの半生を、実際この言葉通りに生きてきたし、今も実践しながら挑戦し続けている。江村林香さんーー函館・新千歳・帯広間に定期航路を持つコミューター航空会社「エアトランセ」の37歳の代表取締役である。

 

5人姉弟の長女。「父親が事業に失敗し、2人の母親にも逃げられた」から、否応なく弟たちの面倒を見なければならなかった子供時代。なのに「親から褒めてもらえなかった」彼女は、褒められたくて、高校へはわざとランクを落とした学校に進学した。それで、「学年1番」になると、親にも先生にも、褒められた。「そうか、小さな世界で1番になればいいんだ」。以来「鶏口牛後」が彼女の人生訓になった。

 

これも1ランク落として進んだ短大時代、家庭教師を始めた。ただし「偏差値40以下」の子供だけ集めて。九九とアルファベットを完全に覚えさせただけで、親たちは大喜びし、噂を聞いて生徒が集まった。月収が、いつの間にか60万円を超えていた。

 

就職も、従業員3人の観光タクシー手配会社を、ハローワークで探した。その会社で彼女は、おカネとヒマはあっても「足」がない年配者を対象にした会員制の小旅行プランや、節税対策のための讃岐うどん店チェーンの展開などアイディアを次々に提案し、認められて26歳で取締役に就いた。その後も、全国の音大卒業生を募って登録し、出張生演奏をする派遣会社や音楽を教えながら面倒をみる託児所など、「すき間」を狙った新事業をいくつか興し、気がつくと、代官山にプールつきの豪邸を建てていた。

 

そこで終わっていたなら、彼女も最近流行りの「勝ち組」の一人に過ぎなかったろう。が、2年前、北海道で函館ー帯広間の定期便就航を目指して設立されたものの計画が頓挫しかかっていた会社を「継いでくれないか」と知人を介して打診された彼女は、それを引き受けたのだ。代官山の豪邸はもちろん、東京での「セレブな生活」の一切を投げ打って。「事業として興味があり、成功しそうだと思ったから」と。

 

その就航第1便が去年3月、函館から帯広に向け飛び立った。まだ道半ばとはいえ、彼女の生き方を知ると、出来ない理由ばかりを口にして、逃げたり、諦めている自分が恥ずかしくなる。「鶏口牛後」の発想が、背中を押す「勇気」になってはくれないか。

 

 

私も「鶏口牛後」という言葉が好きなんです。小さい時から社長になりたいと思っていましたし、就職試験で社長面接の時に将来の夢はと聞かれ、「独立して社長になることです」と言いました。

 

この「鶏口牛後」という四字熟語は、一般には「鶏の頭」「牛の尻」と解されていて、大会社の下っ端でいるよりは、零細企業でも社長になった方がいいという意味だと思われます。しかし、解釈によっては鶏頭は食えないが、牛の尻の肉はうまそうだから牛後がいいとも言えるのです。

 

だからうまくいくのです。みんなが社長になりたがったら社会がまわらないのです。

 


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